2009年11月27日金曜日

諸富祥彦「孤独であるためのレッスン」

諸富先生の「孤独であるためのレッスン」にも、フォーカシングが一章を割いて取り上げられています。

と、今書きたいのはそのことではありません。

諸富先生の孤独について書かれた後の著作(より実践的な側面に力を入れた)『「孤独」のちから』はすべて読んだのですが、最初に書かれた(より理論的な側面の強い)こちらのほうは、途中を端折るような読み方をしていました。拾い読みを積み重ねるようにして読んだので、どこが抜けているのかわからなかったのですが、今回フォーカシング関係の記述を見つけて手にとり、未読のところを探して読んでみました。

私は、諸富先生の本を読むと、読むだけではなくてそれを行動に移さざるを得ないような影響を受けます。こういう書き方はおかしくて、私は読んで感じたところを生きている諸側面で実行に移します。それが正しいのかどうかは良くわかりません。批評家の声を聞きだすと、不安になり、すぐに信頼を損ねます。それは、諸富先生に対してでしょうか。それとも、それをいいと感じる自分に対してでしょうか。

私は、フォーカシングを通して(それが正しい理解だとはいえませんが)からだの感覚(というよりフェルトセンス)を信頼すること、信じている自分は正しいということを学びました。それで、諸富先生の本を読んで感じるフェルトセンスは、信じてあげたい、信じていいと思うようになりました。

それは、「孤独」な道のように思います。共感してくれる人はいるかもしれませんが、私に関係付けられている古いしがらみの中では、そうではない人も出てくるし、その中に浸かっている私にとっては、際立って共同体から抜け出していく孤立感、孤独感を深める経験になるのではないでしょうか。それは、(谷川氏のインタビューの言葉を捩って、)社会「外」存在に押し出される経験なのではないかと思います。

私は、「生き方」の問題に取り組んでいるのだと思います。

信と不信を揺れ動き、行ったり来たりしながら、私は一筋の道を見出そうとします。

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(この記事でも本から借りてきた言葉を使いましたが)フォーカシングに関する記述には、責任が持てません。公式な見解については専門家の著述などを参照してください。

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